子供の頃から何でも刃物を研ぐのが好きだった。今はもっぱら庖丁を研いでいる。
最近は砥石を持たない家が多い。そこで親しい友人宅を訪ねる時は、バッグの底に砥石を忍ばせていく。頃合をみて切り出す。
「奥さん、お宅の庖丁は切れますか?」
たいていは切れなくて困っているという返事が返ってくる。そこからが僕の出番だ。
バッグから砥石を取り出し、驚いて大笑いされるのを尻目に、研ぎ始める。シュ、シュ、と研ぎがかかっていく軽快な音が、たまらなく耳に心地よい。薄汚れていた刃がすぐにまばゆいばかりに銀色の輝きを見せ始める。
「奥さん、ネギでも切ってみてください」
促されて奥さんは興味津々で刃を当てる。
「わあー、良く切れるわあー。助かったわあー。ありがとう。すごいのねえー」
ちょっとした手作業で魔法のように生き返った庖丁。これぞ至福といっていい。世の男達よ、庖丁を研ごう。家庭円満のためにも。
子供の頃から何でも刃物を研ぐのが好きだった。今はもっぱら庖丁を研いでいる。
最近は砥石を持たない家が多い。そこで親しい友人宅を訪ねる時は、バッグの底に砥石を忍ばせていく。頃合をみて切り出す。
「奥さん、お宅の庖丁は切れますか?」
たいていは切れなくて困っているという返事が返ってくる。そこからが僕の出番だ。
バッグから砥石を取り出し、驚いて大笑いされるのを尻目に、研ぎ始める。シュ、シュ、と研ぎがかかっていく軽快な音が、たまらなく耳に心地よい。薄汚れていた刃がすぐにまばゆいばかりに銀色の輝きを見せ始める。
「奥さん、ネギでも切ってみてください」
促されて奥さんは興味津々で刃を当てる。
「わあー、良く切れるわあー。助かったわあー。ありがとう。すごいのねえー」
ちょっとした手作業で魔法のように生き返った庖丁。これぞ至福といっていい。世の男達よ、庖丁を研ごう。家庭円満のためにも。
子供の頃から何でも刃物を研ぐのが好きだった。今はもっぱら庖丁を研いでいる。
最近は砥石を持たない家が多い。そこで親しい友人宅を訪ねる時は、バッグの底に砥石を忍ばせていく。頃合をみて切り出す。
「奥さん、お宅の庖丁は切れますか?」
たいていは切れなくて困っているという返事が返ってくる。そこからが僕の出番だ。
バッグから砥石を取り出し、驚いて大笑いされるのを尻目に、研ぎ始める。シュ、シュ、と研ぎがかかっていく軽快な音が、たまらなく耳に心地よい。薄汚れていた刃がすぐにまばゆいばかりに銀色の輝きを見せ始める。
「奥さん、ネギでも切ってみてください」
促されて奥さんは興味津々で刃を当てる。
「わあー、良く切れるわあー。助かったわあー。ありがとう。すごいのねえー」
ちょっとした手作業で魔法のように生き返った庖丁。これぞ至福といっていい。世の男達よ、庖丁を研ごう。家庭円満のためにも。
保育室に入ると、子ども達が一斉に私の方を向き、持っている絵本をじっと見つめる。「おじちゃん、ぼく待っててんで。今日はどんな話、読んでくれるの。」
「私も。なあ、どんな話?早く読んで。」
「今日は、『おむすびまてまて』と『おまえうまそうだな』の二冊です。さあ始めるよ。」
子らの瞳が、絵本と私にくぎづけになる。
現職の時も、「子どもと本との素敵な出会いを増やしたい。子ども達に、もっと本の楽しさを知って欲しい」と思い続けていた。退職後、そんな思いを知り合いの保育園長に話すと、是非来て欲しい、と喜んでくださった。こうして、念願の本の読み聞かせが始まった。
現在、週に一度、二十分間ほどである。子らの輝く瞳と笑顔が待っていると思うと、本探しに図書館や書店に行くのも、毎日読み聞かせの事前練習をするのも楽しい一時である。
「湘南の海を描いてみよう」と思い立ったのは55歳を過ぎた頃だった。会社ではセカンドライフの講習を受け、人間ドックでは結果が芳しくなく、不安定な気持ちが渦巻いていた。健康や
定年後等という事には正直、真剣に考えていなかった。これではいけない!という強い衝撃が走った。会社人間として全速力で飛行を続けてきた。気が付けば乱気流にもまれ身も心もぼろぼろだった。昔から好きだった絵を描く事が、むくむくと頭をもたげてきた。健康のためにも海を眺め心を癒したかった。湘南の海は家からも近かった。休日は妻を誘い、スケッチブックとおにぎりを携えて潮風に包まれ砂浜を歩いた。岩場に立って江ノ島を何枚も描いた。いつの日かスケッチ展を夢見る人生の発見が心地よい。
母に聞いてみた。
「しあわせって感じるときを、ゴールデンタイムっていうんだって。母さんは何をしてる時?」。
母の答えは、「おいしいものを、おいしく食べてるとき!」。なんとまあ、食欲ですか。・・・と笑ったものの、戦時中に生まれ育った母にとって、いまだに食べられることは感謝するべきことなのかもしれない。
祖母の着物を売った話、祖父の闇市の話。私にとっては、遠い世界の出来事。でも、母はお腹をすかせながらその時代を生きてきたんだ。その苦労を取り返すくらい、ゴールデンタイムを堪能してほしい。
そんな母は今、庭いっぱいに畑を作り、ミニトマト・きゅうり・白菜・おくら・たまねぎ・・・いろんな野菜を育てている。
「なるべく安心できるものを、家族に食べさせたい。」が口癖。
母の作った野菜は、本当においしい。野菜嫌いの私の子供たちも、こぞって食べる。
そんな孫たちの笑顔を想像しているのか、畑仕事をする母はいつも幸せそうだ。私から見ると、その時こそが母のゴールデンタイム。
私たちは、ゴールデンタイムのお裾分けをもらっているのだ。
4歳のお兄ちゃんが、1歳の妹の手を引いてくれています。
「はい、もう行くで!」とでも言いたげな、その背中。
ずいぶん、たくましくなってくれたものです。
妹の方は、どうやら「つかれた…」といった感じ。
少し先に、お父さんの靴だけが写っています。
この一枚は、母であり妻である私にとって「宝物」となりました。
こんな風に私はいつもそっと家族を見つめています。
子供たちは、どんどん大きくなってゆきます。
赤ちゃんの頃のように常に私の胸の中で、大切に包み込むのではなく、
こうやって私の先を歩く子供たちの背中を、じっと見守ってゆきたいと思います。
そしていつか、先をゆく父親をも追い越してくれることを願って。
子離れへと向けて時が流れつつある今、
もうすでに「ゴールデンタイム」は始まっているのかも知れません。
ベランダからの眺めが気に入って即決。中古のリゾートマンションを購入したのは3年前。東京の下町に住む私達夫婦にとって、緑に囲まれたところにセカンドハウスを持つことは、いつしか芽生えた夢だった。定年を迎える頃、実現に向けての一歩を踏み出した。温泉好きの夫と、山を眺めるのが好きな私が絞り込んだ候補地は箱根だった。マンション購入後は、訪れる度に箱根の魅力にとりつかれ、お気に入りの場所も少しずつ増えてきた。タイミングよく数年前から始めた日本画の画材にも事欠かない。購入の決め手となった眺望のお陰で、室内にいながらスケッチすることも可能だ。BGMを流しながら、無心で絵を描く。家事に縛られることも、時間に追われることもない。これぞ至福の時間。人生50余年、感謝する心を知り、幸せは足下に転がっていたことに気づいてから、人生の楽しみ方が上手になったようだ。
私は今ゴールデンタイムの入り口にさしかかったところです。
尾瀬は好きな場所だ。自宅から近いこともあり、年に2、3回通っている。
至仏山に登り、燧ケ岳も登った。山小屋泊りも木道歩きも随分と経験した。
山行は一人のこともあるが、いつも親友と雑談を交わしながら歩くことが多い。
ある夏の日、友人が「何時までこうやって歩き続けられるかな?」と漏らした。
私は、「余程健康を損ねなければ、70歳になっても大丈夫だよ。」と自分の体調に不安を感じながらも答えておいた。
思えば、団塊の世代と言われ、生活に追われながら重い荷を背負って歩いてきた我々も、気がついた時には晩夏を迎え、人生の収穫の時期に来ている。
収穫?何が収穫できるか?人生の総決算をするにはまだ早いだろう?
まだまだ歩き続けて、その先に何が見えてくるか、それはゴールデンタイムに入ってからのお楽しみ。
これといった趣味もないまま、9年前、夫婦ともども公務員生活を卒業。無為に過ごす私たちの姿に業を煮やした息子夫婦は、孫を伴い1等個室の部屋を借りて、フェリーの旅で韓国・釜山へ。私たち夫婦にとっては数十年ぶりの海外旅行。初めての地だけれど、どこか懐かしくもある釜山の漁港や町並みを散策するのは、思いのほか刺激的。孫たちと一緒に魚市場の喧騒と圧倒的な魚の数に驚き、夏なのに皮のコートを買ってしまうなど、ショッピングでの交渉では異文化を体感しました。若返った気もする一方、残された時間を有意義に使わないともったいないな、と反省させられもしました。3泊4日の旅の終盤。釜山の夜景をフェリーの窓から眺めつつ岐路につく中で、少し感傷的になり「今度は2人で、どこか海外へ挑戦してみようか」と話すと、「そうね、あなた、是非頑張ってみて」と珍しく前向きな妻の一言。もう一つの人生のスタートで、大きな元気をもらった4日間でした。
今年2月、元気だけが取り柄だった父が倒れた。病名は末期の肝臓がん。余命半年と宣告された。父の体力に賭けて、手術を決断。3月22日9時間もの大手術が成功し、父は奇跡的に回復した。6月には仕事にも復帰し、誰もがその回復振りに驚いた。そこで迎えた7月15日。父の還暦のお誕生日だ。この日を誰もが迎えられないと思っていた。私と姉から家族旅行のプレゼント。父はとても嬉しそうだった。恥ずかしそうに“赤いちゃんちゃんこ”を着て、目に涙を浮かべていた。「またこうして家族で一緒に旅行出来たらいいね」と・・・。
父と母にとってこれからが人生の再出発。これからの長い人生、たくさんの思い出を作ってあげたい。そして、いつまでも元気で、二人仲良く、幸せでいて欲しいと心から願った。
結婚して30年、夫婦の念願であった湘南の海近くに新居を構えた。夕方、妻と海辺を散歩する。一日の終わりのやすらぎとすべてを赤く染めるやわらかな陽の光が心地よい。若者たちもおしゃべりを止め夕日に向かい合う静寂のとき。自然の大きな包容力を感じ、自分もやさしく素直な気持ちになる。長年、共に歩んできた妻への感謝の気持ちが自然とわいてくる瞬間でもある。
これが私のゴールデンタイム。人として生きるために大切なことを改めてかみしめる。そして、人生の後半から終盤に向かう今、太陽のように最後まで輝き続けることを願う。おだやかな残照を残して逝くことも。
今日一日をありがとう。
明日もまたここへ来よう。
息子が亡くなってもう6年半。あの日から生きている事が申し訳ないとの思いがずっと心の中にあった去年の夏。主人が大好きな松井選手を見に行きたいけど一人では心細いので一緒に行こうと誘われ、断るともめそうなので同行する事に。ツアーではないので全て自己責任。英語のわからない二人が顔をこわばらせての始まりです。なんとか無事到着した時「瑞樹(息子)の事はつらかったけどよくがんばったね」と背中をなでられ、涙が止まらなかった私。
緊張しながらのゲーム観戦も陽気な応援にいつしかウエーブにも参加し、なんと主人とハイタッチまでする事に。そしてセントラルパークをのんびりと散歩し、腕を組んでの街歩き。昼食用に朝のバイキングから菓物を失敬したり・・・・。名所旧蹟巡りはしなかったけれど、心の中のしこりが少しづつ融けていき、この人と又一緒に生きて行こうと私を立ち直らせてくれた旅でした。
中学を卒業以来、油にまみれた50年。
とうとう退職を迎える日がやって来た。まだ々元気が取り柄の私だ。この春、標高千メー
トル級の山々が連なる宮崎県諸塚村へ、記念のクロスカントリー大会、10キロを走った。新
緑の山並を眼下に美しい芝のスロープが続く。
一気に駆け登ると森の中へ入る。樹林の落ち葉が走り抜ける足また足に舞い上る。風が
流れる汗をかすめていく。野性のカンを取り戻し、自然と一体になった走りは素晴らしく、
カモシカ『若者』に敗けじと完走する事が出来た。これからの二十一世紀。自然との共
生がキーワードだろう。これまでの人生を思い。これからの人生へ、巡り来る季節の中で
身体をゆだね、汗を流し、楽しみながら、感謝を忘れず、自然体で生きていこう。すべて
の生物が命の輝きを見せる季節の中で、人生のゴールデンタイムを充実させたい。
「三回忌が済んだから一緒に行こうよ」と姉夫婦に誘われ、
初めてのイギリス旅行に行って来ました。あなたが生きていたら四人で行くのが夢だったのに、そっと写真をカ
バンに入れて行きました。姉は兄の事を「通訳とボディーガードだから心丈夫よ」と少女の様な笑顔で言いました。
絵ハガキの世界の中のイギリスの旅は、感動の毎日でした。片言の英語しか喋れないもどかしさに、英語教師
だったあなたならきれいな英語で喋ってくれるのにと、胸がキュンとしました。
「生きててなんぼやで!」が口ぐせだったのに、定年前の59才で1年3ヶ月の闘病生活で亡くなってしまったあな
た。これから私はどうやって生きたらいいの?とうろたえながら聞くと「今迄通りでいいよ」と最後に言ってくれま
した。友達やご近所の方のみんなのお陰で、寂しくなく元気に暮しています。これからあなたの分迄生きて、い
ろんな世界の楽しい旅に出発します。見守って下さい。
「まだ青きレモン捥ぎたりその昔
家族というを持ちしことあり」妻の死は突然だった。時の巡り合わせはあ
る意味で残酷で、相次いで親が逝き、子供達は伴侶や職を得て独立。気付けば、大家族だ
った広い家に居るのは私一人になっていた。直後の定年退職。ほぼ一瞬の変化だった。
そんな折、四国遍路というのを知った。知った翌日には、もう四国に居た。悲痛に勝る
動機はない。遍路の案内所で教えられるままに装束を調え、遍路杖を握って歩き始めた。
そして、たった独りの数十日。
「陽に灼けし畳に伏して遍路宿
もの言わぬ日の目蓋閉じゆく」
ひたすら歩く毎日。ある遍路宿の無口な主
人が、瞬間に仕上がる写真を撮ってくれる。
それが宿の「お接待」であった。
八十八ヶ所の札所を巡った唯一の記念。やっと心の落ち着きを得た昨今、それは、たっ
た一葉の写真であるが私には限りなく重い。
妻と「日本百名山を登り尽そう」と誓い合っ
たのは十二年前のことであった。効率よく登るために二人額を寄せて計画を練った。遠方
へは飛行機利用なので費用もバカにならない。それでもいつも二人一緒の登頂であった。し
かしあと十数座を残して妻は突然逝ってしまった。私は奈落の底へつき落とされ、何にも
手につかない日々が流れて行った。そんな時「約束の百名山を完登し、登頂記を完成して
ほしい」と励まされ、ようやく登山も再開し、磐梯山に登ることが出来た。泣き乍らの登山
で山頂で思わず妻の名前を大声で呼んだ。いよいよ最後の乗鞍岳に登頂し、皆に祝福して
もらったが、妻と一緒でないことが悔しく淋しくて仕方がなかった。いつも一緒で気づか
なかったが二人で山頂に立つことがささやかな幸せであり、二人にはゴールデンタイムで
あったのだと思い知った。エッセイも「百名山登頂記-約束の登頂」として上梓でき、妻
との約束を果たすことが出来た。
車社会が拡がり、ローカル鉄道が姿を消していった。定年
後は、のどかな風景や、四季を感じさせてくれる山々を車窓から眺めながらのんびりと旅に出たいとガイドブック
を見ながら心馳せ夢を描いていた。夢実現、硬い列車の座席に腰を下ろすと懐かしい記憶が蘇りゆったりした気
持になる。景色を眺めていると時の経過を忘れてしまうまたいろいろな人との触れ合いもある。前の座席のおば
あさんと言葉を交すと「んだ、んだ」と頷き、にこやか、おばあさんからの言葉は理解に苦しんだが温かい気持になれた。
列車を降りる高校生は笑顔で会釈し手を振ってくれた。
人の優しいこころに触れ、素直になっている自分に気付き原点にもどったようなまさに私の至福の時、こころ一つ
で自分が変わり、周りも変わるローカル鉄道の旅はいっぱいのことを学ぶ、元気づけられたり、勇気をもらったり
心和む旅、生きる喜こびを再発見できる楽しい旅が続けることができれば幸せだ。終着駅はどこになるのだろう。
「ヤットサア、ヤットサア」三味線・太鼓
笛・鉦のぞめきのリズムで街中が染まる阿波、徳島の夏。
心が弾み、手足の振りに磨きをかけ、自分流に浮かれ出た。近隣の町へも踊り込み、エ
キサイティングな小学校時代の山間部での盆三日間であった。
郡部での衰退に反し、徳島市では観光化された。
仕事と家事に追われ習い事どころではなかった日々。それでも、幼い日に刻み込まれた
ぞめきに血が騒ぐ。末の息子が県外に進学しチャンス到来。五十二歳で三味線を習い始め、
有名連の天水連でデビューを果たした。昨年五十五歳の夏。
「那賀町」まさかの高張り提灯に高揚した。
町長を先頭に見覚えのある顔、昔の踊り仲間もいた。思わず飛び入り熱狂した。延べ九百
六十連繰り出したという中で、故郷、町興し連に運命的な出会いをした今年の盆。
ハードな踊りはできないが、自ら三味線も奏で、身も心も奮い立つ阿波踊り。私の晴れ
舞台がスタートした。
実母が認知症になり誰かの手助けなしでは
生活できなくなってこの三月で職を辞した。
しばらく充電し、パートか何かに転職をするまでの数ヶ月普段できないことをしようと考
えた。そこで十五年前に応援した競争馬に会いに行くことにした。十五年前は母は元気で
自立していた。私は足繁く府中、中山に通って競馬を楽しんでいた。幸い当時活躍した馬
は元気でいるものが多い。そこで飛行機に乗って母との日高地方のみの北海道旅に出た。
眼下の雲の峰を「あっ流氷だ」と叫ぶ母に小さな声で、「似てるけどあれは雲よ。」と返し
まさに珍道中であったが無事に終了した。そして私は少し幸福になり、母にその分笑顔を
余計にあげられるようになった。イナリワンは美しい芝の上ではなく、ぬかるみの中で遊
んでいたがその顔は穏やかな幸福に満ちているようにみえた。お疲れさまでした。母さんも
こういう余生を送ってもらおう、そう決めた。
定年退職后、仕事のない喜び、夢のような
五ヶ月が過ぎると時間が永く感じるようになった。仕事を辞めれば棺桶に入るまで過ぎゆ
く時間をどうすごせばいいか。どう飽きずに暇な時間を忘れて潰すか。趣味悠々の世界を
通り過ぎさせて呉れればいい。そこで、この歳にして間に合っても仕方ないが、これで喰
って行けないに拘らず、大人のピアノを選んだ。どうせ老年からのピアノ弾きは、正道を
歩けないのだ。どう間違ってもブラームスは弾ける訳がない。「地区センター」の大人のピ
アノ教室に入った。男性は一人。幼稚園の授業と同じだ。四ヶ月后「おさらい会」で「時
のたつまま」「慕情」を弾いた。グランドピアノの上にワインとグラス 二個おいて雰囲
気を出した。途中トチッた。やっと弾き終えた。みんなで飲みましょうと言って礼をした。
会場は爆笑した。その時の写真、プログラムである。今年七月二十四日のことである。
夫は脳梗塞 重度障害 肥満 寝たきり 自宅で看病
すること10年、それでも 時折、小さい声で有難度、すみませんと云ってくれて、本当に慰められました。他界し
た時は、夢も希望も気力も体力も失い、疲れ切った私がそこにいました。そんな時でした シニアタレント募集
の活字を目にしたのは!!頭の中のスイッチがカチッと切り変り行動開始、オーディションも無事通過、数ヵ月後
私は幼き日の夢実現し芸能学院に入学させて頂きました見る物、聞く物初体験で新鮮で、目が廻る程忙しく、セ
リフの暗記は大変だけど撮影用の洋服も セッセと縫って夜空を見上げて出来たと叫んだら そこには満月が光り輝
いていた。夫の笑顔を見たような気がして 涙がこぼれました。 24時間自分の為に自由に時間を使える有難さ
毎日一生懸命することがあって楽しい 私に取ってこれは ザッツ ゴールデンタイムの何物でもありません。
「何か、私にできる仕事はありませんか」
敗戦の満州で職を求めて歩く子連れの母を
哀れみ、一家の編み物をさし出した蒙古人の
太太(タイタイ)(奥さん)。棒の動きを追い「おう!速い」と手を
たたき、蒸した粟のネンドボール(お団子)や小豆粥を
お中いっぱいふるまってくれた・・・・・。その命
のお返しに中国で日本語教師をしています。
中国は四年め、大学は三校めです。一人っ
子政策の彼らは純粋培養の学生です。私の会
話の授業は週二時間ひとコマだけ。彼らは出
身地や言語、宗教など違いがさまざま。初め
て発音を聞き責任を感じました。そこで、午
睡の習慣を破って一人ひとりの発音練習開始。
「先生こんにちは」生き生きとした彼らの
言動に、午前中の授業の疲れは吹き飛びます。
来て欲しかった男子学生が熱心に参加してく
れ、自他共に認める目覚しい進歩を遂げまし
た。人生のしあわせは、彼らと過ごす授業と
中国笛を鳴らし「先生は私の藤野先生」と言
いやんやの拍手で送ってくれたシーンです。
※ 藤野先生は魯迅の東北大学での先生
今年の二月、中学の同期会を兼ねて、還暦
を祝う会を、地元由利本荘市で、全国からなつかしい顔が集まり盛大に行った。我々の仲
間も、今年から来年にかけて続々退職を迎える事になる。私は高校時代に東京オリンピッ
クがあり、ダイナミックな報道写真に感動しカメラマンに憧れ夢を抱いて上京した。気が
ついたら生まれ故郷で写真館を営業し、年中お嫁さんを撮影していた。写真と共に若い頃
から熱中した事に、空手、少林寺、銃剣道など武道があった。しかし自分で写真館を続け
る中で、武道の方は忘れていたが、五十歳を過ぎる頃から気力、体力の衰えを感じ、昔の
空手着、トンファー、ヌンチャクを出して、一人で近くの公園の青空道場で、気楽にマイ
ペースで季節の風を感じて練習しているうちに体調も良くなり、今では生活の一部に溶け
込んでいる。私はカメラマンであるが、名もない隠れ武道家になる時が至福の時、まさに
ゴールデンタイムである。
30年前発病した慢性関節リューマチはどんなに嫌が
っても私の体から抜け出ない。「痛い痛いよなんでこん
なに苦しめるの?」何度恨んだことか。リズム運動でも
したら気分だけでも明るくなれるかも、と痛さを押し殺
してのダンス教室通い。リハビリが趣味に、そしてこの
体でどこまでやれるか一大決心でプロへの特訓。一昨年
ダンス教師認定試験に合格、嬉しくて嬉しくて自分を褒
め称えた。少々体が不自由な人も諦めないで自分に合っ
た踊り方でワルツ、ルンバ、サンバ等楽しんで欲しいと
願い、公民館でサークル活動開始。何かを始めるには年令
は関係無いと聞いた事ある。この4月75才の女性が入
会された。この年で新しい事学ぼうとする勇気に私は衝
撃を受けた。肘が膝がなんて言ってられない。持病とも
仲良くしよう。教えることの大変さ、プロとしての厳し
さ等痛感する今日だけど、練習熱心な生徒さん達と有意
義なゴールデンダンスタイムを築きあげていきたい。
長年続いている趣味に歴史探訪がある。最近では旧東
海道の宿場跡や鎌倉等のガイドを頼まれることがある。
これは鎌倉の鶴岡八幡宮での事。頼朝が長女大姫の許
婚の木曽義高をも討ち、静御前の生んだ義経の子を由比
ヶ浜に投げ捨てさせた等、その非情、冷酷さを得々と並
べ立てゝしまったのである。頼朝の町鎌倉で、而もゆか
りの神社前である。そのあと背筋に冷たいものが走った。
何か祟があるのではないかと。それからは鎌倉では必
ず八幡宮に詣で、少々多目のお賽銭をはずみ、遙か頼朝
公墓所方向へ向いて、深々と頭を垂れるのである。
こんな失敗にも懲りず、私の歴史ガイドは続いている。
下見と称し事前に現地を歩き、時程表を作り本番に臨
む。ガイド終了後の反省会でのビールは又格別。心地よ
い疲れと充実感で、至福の時は流れる。これぞ私のゴー
ルデンタイムなのである。これからも健康に注意して、
この歴史ボランティアガイドを続けて行きたいと思う。
子育ても一段落し、好きな事をやってみようと思い、今年4月よりNSC東京(吉本興業)
に入学。構成作家コースで勉強をしている。他に俳優、お笑い、歌、ジュニアコースもあ
る。俳優にも憧れたが、大阪生まれの私、漫才の台本を書いてみたいと思い、夜間週4回、
往復3時間の通学をしている。これまで夕方以降、外出したことが無かったので少々疲れる。台所に立った事が無かった主人も今は冷凍食品をうまく取り扱えるようになっているには驚いた。主人の協力と理解がないと出来ない事なのでとても感謝している。約600人の生徒は20代が大半、もちろん私が年長は言うまでもない。この写真はお笑い芸人さん達と一緒に撮ったもの。彼らもまた、明日を夢見て頑張っている。私の目標は、漫才コンビ『今いくよ、くるよ』さん達に私の書いた漫才をやってもらいたい。これを日々夢見て漫才に賭ける第2の人生スタートしました。
現役引退後も、地域の経済や文化活動のお手伝いで、
多忙な日々を送っている。信州飯田に赴任して15年、
この地の自然や伝統文化に魅せられ、休日には山登りや
写真撮影を樂しんでいる。コンテストの入賞や環境・文
化面でのボランティア活動がきっかけで、新聞社から依
頼され、紙面1ページを任され、私の撮影した写真とメ
ッセージを月1回のペースで掲載するようになった。そ
こで、外から来た者の目で、この地域の素睛らしさを再
発見し、これを後世に持続するためのメッセージを添え、
「私の好きな伊那谷」というテーマで連載している。冬
の撮影や深夜の原稿書きも大変だが、発刊日に新聞を手
にした時は至福の幸せを感じ、また次へのエネルギーが
沸いてくる。上の写真は、その新聞を手に、棚田を訪れ
たときのものである。この棚田も「私の好きな伊那谷」
のひとつである。これからも、好きな伊那谷で、地域の
ために少しでも貢献できればと思っている。
四人の息子がニューヨーク・ロンドン・滋
賀県・大阪府と散りぢりに暮らしている。皆
忙しく手紙も滞りがちで物足りない。
以前手書きで家族新聞を出したことがある。
手間がかかるので、つい三日坊主になり中断
していた。三年前にパソコンを習い始めた時
使ってみたらとふと思いつく。
私の古希のお祝いに息子たちみんなでデジ
カメを贈ってくれた。旅行の写真を貼り付け
たり、それぞれの息子から来た近況報告の、
メールをコピーしたりして、編集が面白い。
今では毎月発行して二十七号になっている。
パソコン教室に併設されている文章教室で、
学習した成果のエッセイも載せているが、連
載していると自然に自分史が出来ていく。
「おふくろの味」のコラムを書いたり、カ
ットで彩り豊かにする工夫をしたりと、ゴー
ルデンタイムは飛ぶように消化されて楽しく
て仕方がない。第二の青春である。
写真は 主人に当てた絵手紙。
なかなか言えなかったOKです。
桜咲く頃_
「見るだけ」と 主人に誘われ出掛けた。
それはライトを浴び ひときわ輝いていた。
「買えないけど…」と試乗する。
開閉スイッチとやらを押してみる。
静かにルーフが上り後ろに収まった。
周りから「オーッ!!」と歓声が_何だか気持ち良かった。
帰り道、「あの時、私達って浮いてなかったよね」
心が動いた_
でも高い。それに格好良すぎて恥ずかしい。無理だよ…
桜も散ってしまった…。
この春、娘が大学を卒業し社会人となった。
「これからは 自分達の為に時間もお金も使えるね」
と 話してた。
これは 勇気いる買い物だけど_
それに似合う 内面も外面もカッコイイ大人を
目指して 頑張る人生も悪くないか_
主人を喜ばす為に、自分が喜ぶ為に、
「もういっちょう やりますか」
10月大安吉日、納車です。
今、主人はあごひげを、私は髪を伸ばし
サングラスを探し中。
「しあわせな人生のゴールデンタイム」は すでに
始まっているのかもしれない。
真青な空と海。ついにハワイにやって来ました。28年
前主人とハネムーンで来た時、今度は家族で来ようと約
束しました。でも、主人はその約束を果たすことなく、
14年前にこの世を去りました。長女中1、長男小3の夏
でした。何とか子供達を育て上げねばと無我夢中の14年
間でした。子供達が社会人になったら約束のハワイに行
くという夢を心に秘めて。
そして、今年その時がやってきたのです。お陰様で長
女は保育士になりもう7年。長男も就職が決まり来春か
ら社会人。私は思い切って夢の実現に向かって動きまし
た。
私達3人を迎えてくれたハワイはまさに楽園。思う存
分楽しみました。私の大切なかけがえのない家族、主人
が遺してくれた宝物の子供達と、今までで一番輝いた幸
せな時間を過すことができました。もちろん写真の主
人も一緒に。
「一生結婚はしません。」なんて宣言していた長女が、
春3月に大学を卒業し、6月に結婚、12月に出産のサプ
ライズ。友人達が韓流にはまり、ヨン様ブームにわく頃
私は49才でおばあちゃんになった。今やその子は2才9
ヶ月のかわいい盛りの男の子。「もちもちグランマ」と
電話をかけてきては、世間話?までするようになった。
おばあちゃんになって一番のしあわせは、孫のお陰で
時代を超えた家族の絆を改めて感じられることだ。小さ
な孫のくせ毛に亡くなった父の遺伝子を想い、元気で大
きな声に自分の子供時代を重ね、何気ないしぐさや表情
に幼なかった娘を思い出す。
自分が生まれてきてこれまで世の中にたいした貢献は
できなかったが、孫のお陰で21世紀の人類に受け継いで
いくものができたと心から今のしあわせを感じている。
私の人生に新しい目的を与えてくれた今年二人に増えた
孫たち、一緒に輝く時間を過ごそうね。
それぞれの人生を歩んできた学生時代の音楽仲間の一人
から、「第二の人生、また歌や楽器で青春プレイバックし
ようよ」と声がかかり、今年のはじめ、40数年ぶりに
昔仲間5人のJAZZグループ「スイング・フェローズ」
が生まれた。ベース担当のK君が「子供が巣立ったので
部屋が空いている。そこを練習場にしよう」と言ってく
れ、週一回のペースで集まっては練習を楽しんでいる。
半年経った今日、初めてグループ・ホーム「たのしい家」
を訪ね演奏活動をした。今日のために練習を重ねたJA
ZZ調の童謡「浜千鳥」も聴いてもらった。演奏しなが
ら見渡すと、真ん中のおばあさん、椅子の肘置きに置い
た手がリズムをとっている。無表情に前を見据えたまま
おじいさん、頭が動いている。リズムに合ってきた。
ケア・スタッフの皆さんが手拍子やお年寄りの肩を叩き
ながら盛り上げてくれている。思わず感動がこみ上げて
きた。 JAZZ「ザッツ・ゴールデンタイム」
奈良のお寺に行くとホッとする。自分自身雪深い
越後田舎出でありながら。それ以前に、皆を分けへ
だてなく受け入れてくれる、懐の深さを感じるの
だ。悩み多き、青春時代からそうだった。お寺や仏
にそう詳しいわけではない。ただ、奈良の町へ電車
が入り、平城京の緑を目にすると、(古里に来た-)
と胸が一杯になり、古びたお寺の仏と対峙すると、
安堵するのである。奈良のお寺と仏たちは、京都に
比べ、華やかでもなく豊かでもない。萩が生い茂る、
崩れかけた古塀の中、ひっそりと佇んでいる。
私は昨春から、奈良の通信制大学で学び始めた。
それは中越地震がきっかけだった。あの激しい揺れ
の中、(もうダメ)と、テーブルの下で死を覚悟しな
がら、(生があったらこれからは、やりたい時、した
い事をしよう。明日はない!)と思った。学友は団塊
の世代が多い。みな奈良ファンだ。災いや戦争に生
き延びた仏を学ぶ度、奈良が近づく。学友がおっし
ゃった。「風景は変わっても仏は変わらない」。それ
が魅力!この年での勉強は難儀だが、奈良に行け
る、仏に会えると思うと、頑張られる私だ。
熟年時代をどう生きたら良いか、みんな希
むことは、いつまでも健康で豊かに、美しく
年老いたいと、幸福な楽しき哉人生をと。
相変らず夢の実現に、うつゝを抜かしてい
る私ではあるが、ピエロになって街を元気づ
けようと、サーカス好きの私の発想で始めた
のが、この「道化師塾」(ピエロ・スクール)
老若男女、20人位が集まり年令を忘れての、
跳んだり、ハネたり、逆立ちしたり、手足バ
タ、バタ、へたな健康体操より効果抜群!!。
私の奏でるマリンバ(木琴)のリズムでの
「道化師のギヤロツプ」や、ポルカ・ワルツ
に乗せての、綱わたりや、玉乗り芸など、カ
ラフルで派手、ハデな珍奇なピエロ、ファッ
ションの芸。老人ホーム等からのお呼びでの
ボランティアの奉仕も数多く、大好評、みん
な愉しく面白く、クセ?になりそう。数年前
大腸ガン手術で人工肛門をつけた私だが、気
力で快復、人を喜こばせ、自分も楽しむ、こ
れこそ「我が人生のゴールデンタイム」です。
「あと三年位の寿命ですが、
命のある限り頑張りたいです」
今人生の折り返し地点を過ぎ、生来のジャジャ馬から
アネッコ時代に、茶道、華道、書道、英会話に首を突っ
込み、まだ続いているのは書道のみ、それも、正面な字
にあらず、「墨象、前衛書」と呼ばれる書の絵画?夫曰
く「ナヌ描いてんだが、さっぱす訳のわがんね~ごど」
の慢性中毒になっています。
描いている本人でさえ、二十年経った今でも霧の中に
居るようで、ド素人に解らなくて当然てもんです。
母方の明治生まれの祖父が、軍隊で書記のような仕事
をしていたと過去に聞いた事が有り、立派な隔世遺伝。
写真は去年の毎日書道展時、賞にはカスリもしないの
に、堂々と写してもらい、実力通り最下位が私の迷作。
懲りる事なく、五体が動く限り、女なまはげは前衛書
に挑み続け、家族に迷惑をかける事なく、持病の不整脈
で、大筆を振り回し乍らコロッと逝けたならば「幸せだ
ったなあ~」と迷わず成仏まちがいなし!チ~ン。
62歳となった年の夏、ドイツのフルダ川のほとりで地図を見ていると、自転
車のご婦人が「どうされました」と声をかけてくれた。一行は10人ほどでのツ
ーリング、自分はアムステルダムから始めた自転車の旅の最後。サイクリスト
仲間はすぐにうちとける。話が弾んでビールで乾杯。
定年で拘束の無い日々を過ごすうち、自分への挑戦として、海外自転車旅行
を思い立った。構想が決まると、ルートの検討、各地の情報収集、ドイツ語会
話の準備を開始した。
3年前にオランダとドイツを4800km、昨年はイタリアとオーストリアを
4700kmそれぞれ2月かけて走った。彩り豊かな中世の街並、風光明媚な自然の
景観、各国の人々との出会い、これらを汗と苦労でつづる一筆書きの自転車の
旅は思い出多い実りある毎日であった。青春の真っ只中の感あり。そして出会
った人達との文通により旅はまだ終わっていない。
こんな旅が可能な平和な世界がずっと続いて欲しい。
根性、忍耐、努力、積み重ね、日々、継続等々何かの
目標に向う時こんな言葉を記しては己を奮いたたせる。
今日も走った。気温31度、陽はまさに上天にあり、陽
射しは強い。したたり落ちる汗をサッーと拭きエアコン
のきいた車に乗り込む。おもむろに記録帳に今日のタイ
ムを書く。ゴールタイム、ポイントタイムそしてコース
辺の風景、農作業の様子や稲の成育状況等の添え書きを
し一喜一憂する。昨年より確実に体力の衰えを知る。
この瞬間がまさに私の小さな小さなゴールデンタイムで
ある。せめて70才まで(あと4年)は続けたい。
田沢湖マラソンまではあと数日。すべてその日のために
はこの苦しみを楽しみとし、現在(いま)ある自分に感謝し誇り
にしたい。
東京に嫁いだ娘が帰省をかねて孫二人と応援に来る。
マネージャー(妻)と共に大きな声で声援を送ってくれる。
せめて、その前だけでも格好良く走りたい。
90才になる母は今老健施設に入所していますが、「老いは
暗く、つらいものではない」ということをよく言っていま
す。車椅子での生活ですが、いつも笑顔を絶やさない母
を見ていて思うことは、うまく年をとれば老いも結構つ
らくないものだということです。団塊世代を生きる私に
とって、これからをどう生きるかによってその人の老い
は決まるようにも思えますが、自分の周囲の人間関係や
環境に感謝している母は、自然と場を明るい雰囲気にし
てくれ、生きてきたように老いていくようなある種の清
々しさを感じます。入所前に母は3年分の予定が書きこ
める手帳を購入し、いっぱい予定を書きこめることを、
それは嬉しそうに話していましたが、在宅に戻れたら私
も精一杯カレンダーにマルがいっぱいつけられるよう、
多趣味な母をバックアップしていきたいと思っています。
お母さん、これからも清々しく生きて!と祈りつつ、
一緒に過ごす時間が私の幸せなゴールデンタイムです。
長かった梅雨もようやくあけた、八月初めの日曜日の朝です。
今朝は窓からひさしぶりの太陽の陽が射しこみ、そして爽やかな風と共に、ゆったりとした
時間が過ぎています。
妻と二人で食事をしながらふと、窓辺を見るとカーテン越しに朝顔がシルエットになったり、
薄く透けて見えたりして、そのグラデーションの美しさに、食事も中断して撮影しました。
妻は三年前位から通版で色々な花に興味を持ちガーデニングを始め楽しんでいます。
今年の朝顔は特にきれいで、窓一杯に毎朝咲く朝顔のひとつ、ひとつ違う色合いに
そして朝露に濡れ、朝日に輝くさまはみとれるほどです。
私はいわゆる団塊の世代で、もうすぐ定年退職を迎えようとしています。
こうして二人でとる朝食の時間も花に魅せられる幸せの時間と感謝しています。
暑かった日中を忘れるかのように涼風に乗って夜顔の香気が庭から上ってくる。
ひぐらし蝉が鳴き、斜め下からさす夕日が檪林の上を赤く染めるころ、真白な大輪の夜
顔の花が咲く。
林の中や藪は何層も孤を描くように光の線が走り、やがてコトッと音がするかのように
暗くなる。
私は庭仕事を終え、シャワーを浴びテーブルに頬杖をつき、窓枠の外をながめる。
夜顔の花は折り畳んだ花筒をカサッ・・・・・・・・、カサッ・・・・・・・と微かに音をたて開いていく。
肉眼で見えるその動き。淡緑だった蕾がほんの十分で真白な夜顔の花に変わる。
この瞬間が私のゴールデンタイム。
夜顔の花は全部と言って良いほど実を結ぶ。
一粒の種からもう十八年もこの庭に咲く。
香気は夜の虫をよび、肉眼で見るそのいとなみは、ハイビジョンの映像のようだ。
真夏の夕、心洗われる一時である。
フライフィッシングは春から初夏が一番よい季節である。冷たい清洌な渓流、輝く橅の若葉、残雪の中に咲く可憐なかたくり、黄金色のふきのとう、奥深い山の渓流で姿を見せる岩魚、山女魚。私の旅はフライフィッシング第一で決まる。私の旅の一日は早い朝三時に宿を出て渓に向う。八時に宿に帰らなければならない。旅の朝食は妻と一諸にすることが自分に課した命題だからだ。朝食のあとは妻に合わせた観光旅行である。年三~四回北海道から東北までのフライフィッシング旅行をして来た。家では週1~2回奥利根や新潟の近場に出掛ける。このパターンは現役の頃から二十年以上続いている。シーズンが終ったら釣った岩魚や山女魚の燻製づくり、友との岩魚パーティ、来シーズンへのフライ(蚊針)づくり、身体づくりのための早朝ジョギングと一年は廻る。おかげで64才でも一日中渓を歩き廻われる。これが私の過去、現在、未来へ続くトリロジー。ゴールデンタイムである。
妻とは見合い結婚。一目惚れした私は、すぐプロポーズ。だが、妻は戸惑い顔。スポー
ツマンタイプのスマートな男性との結婚を希望していたのに、私が小太りの丸ぽちゃタイ
プだったから。ところが、私も妻同様、熱心なポピュラーミュージックファンと知り、翌
日オーケーの返事。結婚後は夫婦喧嘩をする度にポピュラーミュージックを聴き、互いの
気持ちを和ませ、仲直りしていました。
その仲直りに大きく貢献し、夫婦愛を育んでくれたのが我々の間に見えるステレオ。実
はこのステレオ、三十年前の結婚記念日に、私の一か月分の給料とほぼ同じ価格のため、
清水の舞台から飛び降りる心境で買った物。
でも、この買い物は大成功。これまで何度も修理をしたが、サウンドは迫力満点。今で
は私たち夫婦のゴールデンタイムに欠かせぬお宝。このステレオに昔懐かしいLPレコー
ドを掛け、耳を傾け、結婚生活の思い出を語り合うのが、私たち夫婦の至福のひと時です。
きっかけは、不幸な事が重なったからだった。落ち込んでいても仕方ないと環境をガラリと換えてみたかった。お直し工房の「60才位 急募」とある広告に趣味で洋裁をと言うだけでプロの経験はないのに、まず電話をかけてみた。幸いにも翌日採用として頂けた。何せ30数年振りの仕事。言われる事はプロ意識を持て!オドオドした気持でミシンに向う。初めて使う工業用。それは私に威圧感を投げてくる。糸をからませては、ミスの連続。レジの操作もしかり。加工、応待と覚える事一杯で頭がパンク状態。囲りの人の確かな素晴しい技に圧倒され、井の中の蛙だったと痛感。毎日通ううち、早く私も上手になりたいと希望を持つ様になった。好きな事が仕事。こんな喜しい事が他にあろうか。やっと見つけた道のようにも思える。やはり扉はたたいてみるもの。今の夢は、小さな店でも生涯現役で仕事をと思う。間もなく一年。扉を開けるのが遅かったか。そうは決して思わない!
写真の中の私は前列右、50代。周りは娘のような歳の、10代後半。私達は同じクラスメ
ート。社会の荒波をくぐり、子を持ち、私は再び女子学生に戻った。
大学の学部は最難関と言われ、現役で受けて失敗している。そして、兄弟のために進学を諦めざるを得なかった。
人生のお仕事を終え、社会人枠と言う中で、夢の夢が現実のものになった。神の采配は時として想像を超える。
そのキャンパス・ライフはまさにゴールデンタイムだった。一学生として学び、語り、年下の教授からは人生相談をされた事もあった。あれは夢だったのだろうか?時々そう思うことがある。
しかし数年経って、現在は女子学生を応援する側に回り、奨学金を出したり、シンポジュ
ームを開いたり、その活動に忙しい。
ゴールデン・タイムは今でも私の中で続いている、より確かな手ごたえを持って。
一人息子が大学に入り、我が家を巣立った。また夫婦二人だけの生活に戻り、二人で旅行に出かけることにした。行き先は“ハワイ”。幾度か訪れた街であるが夫婦二人っきりは始めてだ。ホノルル空港からタクシーでほぼ30分。ワイキキのホテル街に到着。待望の“常夏の豪華ディナー”を楽しみにワイキキへとくりだした。ワインとステーキに舌鼓をうち、ほどよい気分になってワイキキのメインストリートのカラカウア通りを散歩。そこにはストリートパフォーマンスのアーティストたちが「我は…」と言わんばかりにその腕を競っている。…とその時、風船を膨らませ、望みどおりの形にしてくれるパフォーマンスがあった。妻にあげるものを…と注文すると“小さいおちょぼ口で大きい目をしたエンジェル”を作ってくれて「愛はこう伝えるのだヨ!」と手ほどきまで受けた。こぼれんばかりの妻の笑顔を見て、幸せであることを心から実感できた旅行となった。
男児一人、女児二人の孫三人、上の二人は小学生末っ子のみちるは保育所へ通う女の子、朝夕は戦争の様な毎日の七人家族。
町の多くの若者は、勉強を積めば積む程職を求めて都会へ流失、高齢化率・過疎化の進みが止まない小さな山村。
それでも地区に残った若者が地域を支えてくれ幸い我が家の近所では、我が家を含め若者が残り、にぎやかな小さな声が響き渡る地区でありそれが地域の一抹の明るさと感じずにはいられない。
家族皆でわいわい夕食が済み、やっと一息と腰を降ろせば、間をおかず「ばあちゃん風船ごっこしようよ」と一緒懸命膨らませようとしている姿に一日の疲れも忘れ、ばあちゃんも、ついつい孫の姿より一緒懸命になってしまう一時が現在の我が家であり、この一時が多世代同居の目まぐるしい一日なのであろうか。
「仕事は遊び」と思える仕事に出会えた人は幸せだ。という自論を持っていた。遊びは面白いから一生懸命遊ぶ、つまり一生懸命仕事にのめり込むのだから、悪い結果が出るはずがないではないか。 主人の定年と前後して勤め始めたお弁当屋で、私は正にそのツボにはまってしまった。勤めて12年、私は1度もこの仕事を辞めたいと思ったことがない。59才にしてレジに立つ、現役看板娘ならぬ看板おばさんなのである。夕方5時に入店して出
店までに最低でも200食以上のオーダーを入れ、前後のあいさつを入れると、しゃべる数は果しない。しゃべる事の効能は多く、ストレスも溜まらない。さばききれた時の充実感もある。ファンのお客様に励まされ、自分の存在感も実感出来る。もちろんクレームで落ち込む事もあるが、それもまた勉強。 当所反対していた主人も今は協力的である。 何がそんなに面白いの?と首をかしげる娘の言葉を背に、 今が最高! 今日も私は店に立つ。
河越宏61才、河野房子61才、里口雅江57才、石田真智江53才、チンドン屋初挑戦の一コマである。新興住宅地の某四丁目に越して15年、町内の親睦と子供達の思い出作りにと始まった四丁目夏祭りは14回めを迎えた。毎年各家の軒先での出店、工夫を凝らしたイベント、抽選会等町内の有志達によって盛大に行われる夏祭りだが、年々子供達が成長、町を巣立ち、町内の小中学生はグンと減ってしまった。子供達あっての祭りである。子供達の笑顔だけがほうびの実行委員だが、自分達も年をとってしまった。あと何年続くかな?という声の中、最高齢の4人が立ち上がる。「ようし、今年はチンドン屋をしてよその町内からもたくさん子供達を集めよう」と一念発起、手作りの衣裳で炎天下の中、音楽を流しながら2時間をかけて風船を配ったのだった。「我が青春に悔いなし」、河越宏の口グセである。我々の青春はこれからも続く。
私淑する空手の師範から認定書を頂いた。墨筆で「審査の結果一級に進む」とある。無縁と思われた“黒帯”まで、あと一歩だ。嬉しさを噛みしめ、何度も黙読する。
入門は48歳の秋。この頃、勤務先の業界団体が解散した。人生の岐路に直面した私は、閉塞感を打ち破る“過激な何か”を渇望していた。その答えが空手だった。
あれから3年。道場で裂帛の気合を発し、失望、憤怒、後悔などの負の感情を、ひとつずつ吹き飛ばしてきた。硬直した身体を、“上段回し蹴り”を放てるまでに練り上げた。
自宅では、毎日ベランダに出て“正拳”を100回突き、“上げ受け”を繰り出す。通勤電車では、黙想して“形”(かた)を演ずる。寝る前に横臥して“横蹴り”を放つ・・・。
行住坐臥、その妙味を味わう。修行には、道具もお金もいらない。裸の自分がいればよい。陽気な仲間とともに、終わりのない修行に打ち込む。至福の時は、常に、今ここにある。
オランダ坂を登る後姿を見たときなぜか急に胸がつまった。
シャッターを押しながら「おつかれさま」と頭を下げた。曲がりくねりながらも二人で迎えた60代。二人の子供も結婚し、安堵のなかに感じる寂しさをお互いそれとなく補っている今、楽しみといえば食事と旅とゴルフだ。食事の仕度は料理好きの私にとっては特技。旅は知り合ったときから共通の趣味。ゴルフはカートで「二人ゴルフ」を楽しんでいる。それにしても最近の夫は今までとは別人の如く気を使う。こんな神経をいままでどこに隠していたのか、変な人。だが、ふと思った。人生下り坂の私には、変な人はもってこいの遊び相手かもしれない。バラの植え込みの穴は掘ってくれるし、荷物は持ってくれる。ビールもついでくれるし、手抜き料理もニコニコ顔で食べてくれる。こんなたくさんのおまけがついた遊び相手はそうはいない。神様はきっとファインダー越しに気づきを与えてくれたのかもしれない。
およそ商売とは縁の無い堅物の仕事をして定年した。
毎日の暮らしは悠々自適・・・と、思っていたが6年も経つとゆうゆうも色あせる。
これでいいのか、「おまえさん」
自分さえ楽しければ、の人生なんて意外とつまらんね。
世のため、人のため、というような大それた事でなくとも、もうすこしマシな存在感、そんな生き方あるやろ。
口下手で商売っ気もないのにそれでも大胆に決心した。
陶芸、絵画、ケーキ作りからパッチワーク、野にある野人で、プロより凄い感性を持つ人がいま、熱心だ。
よし、私の素人大工の腕でこの人達の発表の場を提供しよう。
退職金、棺おけに敷いて逝くよりも値打ちがあるはず。
不安に押し潰されそうになりながら開業のシステム作りに没頭するうちに、大きな喜びが沸いてきた。
さあ、俺の人生の総仕上げにかかるぞ。