十歳三ヶ月の娘がいる。名前はキャンプ。ビーグルの雌である。一緒に山歩きをするようになって九年ほどになるが、彼女は突然体調を崩した。検査の結果、手術不可能なほどの肝臓癌だと診断され、安静を告げられた。
私がC型肝炎の治療で副作用に一年間悩まされていた時、いつもキャンプが優しく寄り添っていてくれた。治療の成功で肝臓癌への恐怖から逃れられたのは、彼女が身代わりになってくれたからだと思えてならない。
暑い夏にもかかわらず、毎晩キャンプは私に抱かれて腕枕で眠ろうとする。彼女の身体を撫でながら寝息を聞いていると、尻尾を小さく振ることがある。夢の中で大好きな山々を駆け回っているのかもしれない。そう思うと涙が溢れた。そして、決意した。
ある日、少し体調を取り戻したキャンプの先導で霧島の大浪池へ登った。眩しい夏の風景を前に「また登れて良かったなあ」と語り掛けると、確かにキャンプが微笑んだ。
十歳三ヶ月の娘がいる。名前はキャンプ。ビーグルの雌である。一緒に山歩きをするようになって九年ほどになるが、彼女は突然体調を崩した。検査の結果、手術不可能なほどの肝臓癌だと診断され、安静を告げられた。
私がC型肝炎の治療で副作用に一年間悩まされていた時、いつもキャンプが優しく寄り添っていてくれた。治療の成功で肝臓癌への恐怖から逃れられたのは、彼女が身代わりになってくれたからだと思えてならない。
暑い夏にもかかわらず、毎晩キャンプは私に抱かれて腕枕で眠ろうとする。彼女の身体を撫でながら寝息を聞いていると、尻尾を小さく振ることがある。夢の中で大好きな山々を駆け回っているのかもしれない。そう思うと涙が溢れた。そして、決意した。
ある日、少し体調を取り戻したキャンプの先導で霧島の大浪池へ登った。眩しい夏の風景を前に「また登れて良かったなあ」と語り掛けると、確かにキャンプが微笑んだ。
十歳三ヶ月の娘がいる。名前はキャンプ。ビーグルの雌である。一緒に山歩きをするようになって九年ほどになるが、彼女は突然体調を崩した。検査の結果、手術不可能なほどの肝臓癌だと診断され、安静を告げられた。
私がC型肝炎の治療で副作用に一年間悩まされていた時、いつもキャンプが優しく寄り添っていてくれた。治療の成功で肝臓癌への恐怖から逃れられたのは、彼女が身代わりになってくれたからだと思えてならない。
暑い夏にもかかわらず、毎晩キャンプは私に抱かれて腕枕で眠ろうとする。彼女の身体を撫でながら寝息を聞いていると、尻尾を小さく振ることがある。夢の中で大好きな山々を駆け回っているのかもしれない。そう思うと涙が溢れた。そして、決意した。
ある日、少し体調を取り戻したキャンプの先導で霧島の大浪池へ登った。眩しい夏の風景を前に「また登れて良かったなあ」と語り掛けると、確かにキャンプが微笑んだ。
私は、定年という名の失業を機に、身の閂を皆はずしたストレスレスの人生モードに切り替えるため、いくつかあった有難い再就職のオファーを「武士は食わねど高楊枝」の気概で皆お断りした。その決断によって、これまで職務最優先で控えざるを得なかったことや心に仕舞っていたことどもを実行に移している。中でも我ながら痛快なのは、管理職になって十数年間、練習もままならずに退いていた騎射流鏑馬の射手としての現役への復帰である。現在全国に残されている流鏑馬は、豊凶占いの農耕祭事としてのものがほとんどだが、私は、熊本藩に武芸として継承されてきたもので県の重要無形文化財の指定を受けている武田流(細川流)騎射流鏑馬宗家の門弟である。狩り装束に着替え、弓矢をもって馬上の人となるや、心はもう凛とした武士であり、やがて直線馬場を疾駆する馬上から矢を放つ時の浩然の気はたまらない。年齢なんか忘却のかなたなのである。
古希を迎えてから始めた私のスペイン語は、いまだに幼児語レベルに止まっています。
なぜ「今ごろスペイン語?」と人に問われると困ってしまいますが、一番の目的は、スペインの栄華の歴史に弄ろうされた中南米の歴史を勉強したかったからです。
スペインに「見ることは、信ずること」という諺があります。日本でいうと「百聞は一見に如かず」でしょうか。昨年、それに倣って、スペイン語の武者修行にペルー・マチュピチュに出かけました。
ペルーの人びとは、気さくで明るくて親切でした。その人柄に誘われて、地元フオルクロールの若者たちと一緒に「エル・コンドル・パサ」を合唱する破目になってしまいました。
-飛ぶ・飛ぶ・コンドル、いつまでも飛ぶ-
黄金の国インカで文字どおりの我がゴールデンタイムでした。
いつまでも・もっと高く・飛ぶ・飛ぶ・もっと。
「もういいわよ。じゅうぶん頑張ったじゃない」玄関でクツをはいている私の背中に妻が言った。「えっ?」と振り向くと涙を浮かべながら頬笑んでいる。自分にむち打つようにして出社していたことを妻は知っていたのだ。
電車の中で考えた。あと何年元気でいられるだろう。車窓を流れる風景に亡くなった同僚たちの顔が重なった。ほどなくして私は早期退社を決心した。「これからはあなたの好きなことをしたらいいわ」と言われても、仕事ばかりの人生で私には何の趣味も無かった。「ほら学生時代は写真部だったじゃない。また始めたら?」若い頃カメラを手にあちこち旅をしていた頃を思い出した。退職後、私たちは新婚旅行の地、ハワイへ向かった。ホノルル空港に着いた瞬間、私の中で何か幕が上がったような気がした。全てが輝いて見える。私は朝から晩までカメラを手に飛び回っていた。「まるでカメラ小僧ね」そう言っていた妻がこんな写真を撮っていたとは、、、。
逆風の中で夢を追う短い子ども時代を送り、結婚後、平和な生活を過ごした五十歳にな
った時、自分が生きて、教育を受け、結婚し、子を育て、飢えていないという事実は、この地球上では恵まれていたと感じたので、途上国の子どもの援助を始めた。次いで二〇〇三年、バングラディシュの就学率の低い村に自費で学校を建てた。暑くて、虫の多い所には行かないと決めていたにも関わらず、子等の礼状の「あなたに会いたいです」という言葉に打たれ、出かけて行った。世界のむこうにある、竹の壁の一部屋だけの「さくら学園」。
輝く瞳の子ども達二十八人が学んでいる。何も持たない子ども達が感謝の気持をこめ野の花を摘み、私の幸せを願い、花びらの雨を降らせてくれた。思わず手を合わせた。
今年は娘二人が同行した。再来年は定年をむかえる夫の頭にも花びらの雨を降らせたい。
子ども達の夢見る未来に、しばらく伴走することが私の人生のゴールデンタイム!